淡路島の田舎を歩くと(島全体が田舎だが)時たま奇妙な車に行き会う事がある。
のろのろと運転されているその車は、乗り手が完全にむき出しの状態で椅子にすわっており、外気から身を
保護するものが一切ない。エンジンもまた乗り手と同じくむき出しであり、どう見ても車体とエンジンは
別個の設計でちぐはぐな感じを受ける。トラックの形はしているが、荷台が木製である。
サイドミラーはとれているかひん曲がっているかで、指示器はいまどき腕木式になっていたりする。
はっきりいって見た目「ダサい」の一言だが、そこがまたイイのである。鉄の部分はきれいに錆びていたり、
車幅を縮めるために車軸を切り詰めたり、後輪の地面へのくいつきを良くするため荷台の下に石を積んだり、
反対に前に鉄塊を取り付けたり。それが農民車なのである。
こんな無茶な車が通れるのも、農民車が「私有地」、つまり田畑でしか使わないという事が
建前になっているからだ。 ご存知のように公道以外の私有地では、何に乗ろうと自由である。
後輪のとれた単車に乗ろうと、ハンドルのない車に乗ろうと、個人の自由なのだ。
だから農民車を警察も役所も大目に見ている。まあ実際問題として道路に出ずに農作業することは
不可能なので、良識的な農民車の持ち主は小型特殊の小さな緑ナンバーをつけている。
しかし、それすらも勝手に新しい農民車に付け替えたり、脱落したままだったりの場合がおおい。
何しろ車検がないのだからやりたい放題になってしまうのである。
農民車が淡路島にしかない(注1)、ほとんどそうだという事実は、どういう理由からなのか
はっきりわからない。
ある人は「淡路の人間が創造力ある証拠だ」などとお世辞のようなことを言っていたが、
そうにも思えない。まあ普通の日本人だろう。
おそらくこれは、淡路島の地理的というか、都市部との位置関係に理由のひとつがあると思う。
数キロの海をへだてて(いまは違うが)阪神地方という大消費地と隣接するこの島は、
手作業で改造車を造るための中古パーツには事欠かない。改造に関する知識も入ってきやすく、
そのかわり島国の中の島国根性というか、都市部に劣等感を持っている
(阪神地区のことを島民は上[カミ]と呼んだりする)ため、
都会人の…つまり大手メーカーの手によらず、自分達の手による物がほしい。
そういう気持ちが淡路の人々の中にはあったのではないか。
その淡路の人々のなかには役人もいるのだ。役人のなかには兼業農家だっている。
この不細工な手作りの運搬車をあえて咎める気にはならなかったのかもしれない。
さいわい、より官僚的で石頭な中央の役人も、海があっては目がとどきにくかったろう。
あとは適度な島の耕地面積だろうか。おとなりの小豆島や家島に農民車があるという話は
聞いたことがない。もっとも行って確認したわけではないが…。
そんなこんなで農民車は現在、無登録のものを含めて三千台ほどあると思われる
(五・六年前に見た三原町の農業誌には約二千台と書かれていた。これは役場の推計なので
登録された車両数だけだろう。)。思われるというのは、とても数えられないからである。
私が農民車を写真機で採集し始めた十年ほど前は、それこそ前・後・横・斜め前方向からの写真を
一台ずつ完璧に撮ろうと酔狂なことを考えていたが、とても勤め人の身でできる事業ではない。
それに農民車は今も生産されつづけ、人知れず野に棄てられつづけている。
ある時点での台数を数えることができないのだ。
とにかく、農民車は三千台平均で島内にあるということである。いつごろ第一号車が造られたのか、
ということもだいたい昭和三十年頃…ということしかわからない。初めて造ったのは誰か、ということに
なるともうお手上げである。ぜひともこちらが教えてほしいものだ(注2)。
農民車を調べるものが言うのも情けないが、以上の様に統計的にはっきりしない、というのが
農民車の特色なのだ。
特色といえば、きっちり同じ型のものがない、というのもそのひとつだ。
前述したように、農民車は一台一台手作りであるが、製造所によってそれぞれ特徴はある。
といってもフェラーリみたいに規格を決めて強度計算をしてパーツの品質をみて……
なんてやってるわけがない。社長兼従業員が一人というような鉄工所で、おっさんが
適当につくっているのだ。 しかも発注者のおっさんもこれまた思いつきで「こんな風にしてくれ」などと
口頭で鉄工所のおっさんに言うのだ。要するにオプション装備のオーダーメイド車だ。
そして鉄工所は勘でドライブシャフトを切り繋ぎ、板バネを溶接し、どっかから耕運機か中古乗用車の
エンジンを持ってきて、だいたいでボルト止めする。本当にこれで走る車ができるのだから、
不思議なものである。
もっとも、適当に造っているとやはり事故になりやすい。夕暮れ時を過ぎてまで野良仕事をしている
三原郡などでは、路肩にとめた反射板のない農民車に、一般乗用車が追突することがある。
自分も実際に一件みたことがある。
また車体の重心が高いために、ちょっと傾くとひっくりかえったりする。草が生えて端のわからない
用水路にもろに転覆した農民車もみたことがある。運転者はどうなったのだろうか。
ダンプリフト式の荷台を操作していて、荷台と車体に挟まれたりする悲惨な事故もあるそうだ。
あまり事故が増えると、当局も動き出すかもしれない。
農民車が規制された事も一時あったようだ。寸法やエンジンの馬力などを低くおさえたすぎたもので、
あまりに現実ばなれした数値(市販のトップカー並みのものと記憶している)にあきれたが、
今、それを遵守している農民車を見ることはかなり難しい。というか、無いだろう。多分、条例とかより
もっとゆるい、「通達」とか「努力目標」などの類だったのではないか。役所が本腰をいれていたら
農民車がなくなっていただろう。
もっとも例のPL法の関係で、新作の農民車にはやたらめったら注意書きのシールを貼ってあるものが多い。
取扱説明書までついているのもある。適当に造られてきた農民車だが、将来はもっと安全で便利な
乗り物になるのだろうか。
他の工業製品と同じように、農民車も時代とともに変遷していくのは間違いない。その動きを
とらえていくのも本ホームページの目的である。
この淡路島独自の文化財を、どこまで記録できるのだろうか。
平成十一年七月/近野 新
(注1)…平成十二年末の段階で、三原町掃守の前田鉄工(cwf4×4:bQ参照)は播州・四国・九州等に
農民車を販売しているという情報がある。そうだとすると、農民車は淡路島独自のものでは
ない事になるが、わざわざそういった遠方にも売られていくという事は、とりもなおさずその地方には
農民車を製造する工場がないということになるのではないか。
もとより確実なことはわからないのだが、淡路島において特に多く存在するということだけは
確かなようだ。
(注2)…この文章を書いてから、はや二十年以上の時は流れたが、ようやく最初の農民車がいつ生まれたかが
判明した。というか、近野がやっと知ることができた。当HP読者のtnkさんからご報告があり、
神戸新聞NEXT・2021年6月12日で製作者の話が掲載されているのである。
「農民車」淡路島で60年、独自の進化 幻のライバル「コマツ」を淘汰 |総合|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)
詳細は実際のページを見ていただくとして、その要点を記す。
NHK『明るい農村』(1983年)に出演した製作者の記憶によると、その最初は
「昭和35〜36年」
であり、『地域農業の革新』という研究書では
「1961年秋に試作」、
『日本農作業学会誌』の記載における現場を目撃した元営農指導員の証言は、
「第1号は1960年5月、現在の普及型の原型は1962年2月」
としている。
製作者とは、いまは農民車修理のみを弟さんが営んでいる前田鉄工という会社の
前田敬語さん(故人)という方。
水色の塗装、多面体の前部覆い、水冷エンジン四駆の農民車を得意としていた鉄工所だ。
■79.
既出の写真で未塗装だが、車体を水色にすればまさに前田鉄工の農民車。いまも
その姿を普通に見ることができる。
当然、「昭和35〜36年」頃の農民車はまったく違う外観だったろう。
いったい、どのような姿で走っていたのか?もしかすると、それと知らずにフィルムに
収めているのかもしれない。
話がやや逸れたが、神戸新聞の文面からみておそらくご遺族の取材があり、
書籍からの裏付けもされているので、
昭和35年(1960年)が農民車の生まれた年でいいだろう。
新聞記者の取材の賜物、ありがとう神戸新聞。長年の疑問が解けました。
実にいまから61年前のことだったのだ。
[目次へ△]