■177.fwf4×2(玉葱/?/?
この写真は、私の撮ったものではない。三原町が出版した農業関係の資料に掲載されていたものを
抜粋させてもらったものである。写真の解説には、こう書かれていた。
「昭和40年代後半より収穫機(※写真の車体)の開発が進められてきた。」
収穫機そのものの仔細はなにも書かれていない。
また、同じページにはこうも記載されている。
「昭和40年頃開発された農民車は全島で約5,000台が使用されている。」
1994年に作られたこの資料は、農民車に関しての根拠がどこにあるのか今ひとつさだかでないが、
三原町の主要産業であり、国内生産高の多くを占める三原玉葱生産に、三原町行政が支援していたというのは考えられることだ。
その収穫作業の労力軽減のため、玉葱収穫機を開発していたらしいのだ。だから「昭和40年代後半より云々」の部分は信用できるとして、
農民車の総数が5,000台から存在するというのは、私の印象としては、ちょっと推測が勝ちすぎている気がする…
…つまり、多すぎると思う。そういう私自身にしても根拠がないのだが…。
さて、その三原町が開発した玉葱収穫農民車というのをじっくり見ていきたい。
エンジンは農業用水冷ディーゼルで、もっとも普及されている型である。ハンドルは油圧なしの生ハンドル、その
奥には動力を収穫装置と後輪に伝達するシャフトとギヤボックスが配置される。普通、後輪の動力伝達には車体下に
シャフトが設けられるが、収穫装置の関係で上部にもってきたのだろう。運転席はめずらしいバケットシートで、なんと
緩衝用のバネがついている。他の建設機器か農機からの流用だろう。足回りは後輪駆動の四輪、前輪には車体と充分な隙間が
あるが、後輪にはほとんどない事から、後輪側にはバネがないと思われる。
そしてもっとも特徴的で、本車の大部分を占めている収穫機構だが、まず一番前にはパワーショベルのような、玉葱を掬い取る
装置がある。これは当然上下動ができるだろう。そうでないと路上走行できない。後輪のうしろは土がなくなっているのだが、
このことからこのショベルが土ごと玉葱を掻きとっていることがわかる。またショベルにはおそらくコンベア−ベルトがついている。
ショベル横にゴムベルトがあるからだ。このコンベアーで土と玉葱を後ろに送り、そこから爪のついたコンベア−で後上方に上げていく。
この時点で土だけをふるい落とすのだろう。爪付きコンベア−を登りきった玉葱は少し落下し、スノコ状の台で葉を下に向けて並べられる。
…このへんはよく判らないのだが、ここで葉を切り取ることができるのかだ。切れるとすればどうやって切断しているのか、
ちょっと想像できない。とにかく、最終的に一番後部の小さな荷台に配置された四つのコンテナに玉葱が落とされる。
ここで作業行程が終了するのだ。コンテナには葉のついていない玉葱がはいっているので、やはり葉は切り取られていのだろう。
この極めて独創的かつ大掛かりで複雑な車輛は実用化し、普及したのだろうか。
結論はまったくの失敗作だったはずだ。私は淡路島で生まれてこの方、この農民車を見たことも聞いたこともない。
三原町の資料でこの写真を見つけたとき、それはそれはびっくりしたものだ。そして、絶対に
農家には受け入れられないだろうということも瞬時に感じ取れた。土に根を張った玉葱を機械で抜き取るのは、
想像しただけで困難だ。だから人間が手で一本一本引き抜くのである。仮にうまく抜けたとしても、この無数にギヤのついた
複雑怪奇な全機構を動かす原動力は、たった一基の単気筒エンジンなのだ。この大きさなら5馬力あればいいほうだろうが、
あまりにも非力だ。そして、やはり積めこまれすぎた大重量で大量のギミックは故障を頻発させるに難くない。たぶん町内の鉄工所で
製作されただろうが、そのような場所で作られるにはあまりに荷の重い機械だったに違いない。
だがしかし、それでもこの車体を開発しようとした意欲と完成させた努力は認めざるをえない。関係者は農民の労力軽減と
利益向上のために真剣に設計したに違いない。たとえそれが、後世の目からみて馬鹿げていても、すばらいことなのだ。
実証試験の前夜、彼らは期待と不安でよく眠れなかっただろう。そして試験後は、落胆してよく眠れなかっただろう。
現在では、いくつかの大手農機メーカーが玉葱収穫機を販売している。値段はしらないが、いずれも
比較にならないほどコンパクトにまとまっている。