なぜこんなに藁まみれになっているのかわからないが、運転席しか見えていないfwrが、津名町の
山間部にある物置にうずくまっていた。
この型は、なぜか津名町・一宮町・五色町等の北中部と、南部の南淡町に別れて分布する傾向がある。
こういう形式の農民車が、かつて流行したことはすでに少し触れた(
No.1参照)。それを踏まえたうえで
簡単に推測してみる。
淡路全島に流行した後、エンジンが整備しにくいとか、始動に手間取る、後部が地面に
接触しやすいといった欠点が露呈すると、農民車の先進地である三原町・西淡町からは、より優れた
形式(cwf4×4など)にどんどん世代更新しはじめ、逆に後進地であるそのほかの地域に
生き残っている…のではないだろうか。あたかも、古い京言葉が周辺地域に流行し、それが
都でうしなわれた後も、かえって田舎でいつまでも残っている波及様式と似ているようだ。
もっとも、この推測が当たっているのか確証はもてないが。