おたけさんの
「農民車史」
 
 
以下の文は、「おたけ」さんという方が
近野駅掲示板に書き込んで下さった情報(2002.2.20〜2002.3.27)
をもとに、近野が文章をまとめたものです。
おたけさんは以前より農民車に興味を持たれていて、ご自分でもHPを作成するべく
色々と調査をされていたようですが、その知識を
「淡路島農民車考」のために提供して下さいました。
この場を借りて、あらてめてお礼を申し上げたいと思います。
ありがとうございます。
おたけさんの情報は、私(近野)が以前から知りたかったこと……農民車の開発者とか、
発展段階、エンジン形式等がこまかく列記されていて、大変貴重なものです。
これからもご教授をたまわりたいと同時に、ご活躍を願っております。
 
 
 
はじめに
 
農民車を書く場合、まず玉葱栽培の歴史を書いておく必要があります。
話は明治以前まで遡るのですが、当時、一般的に稲作についてだけ年貢を課すところを、
淡路島南部ではその裏作である麦にも年貢を掛けていたらしく、
地主と小作との間で揉め事がくすぶっていたらしいのです。
そこで、麦以外の作物は年貢対象にならない…という慣習を
抜け穴として、裏作の作物を小作が求めていたというのが、
そもそもの玉葱栽培の発端となります。
歴史的資料には、1888年に某県会議員が海外旅行から玉葱を食べる文化を持ち帰った…
というような記述があり、その議員の指示で賀集村の林氏ら数名が
種を撒き育てた記録もあります。
実際に裏作として玉葱を栽培した最初は、ある農業誌では大正時代に
採り入れられた詳しい資料があります。
昭和恐慌の後、某海外練乳会社が広田に工場を置いたのを期に、
工場周辺で酪農が盛んになりました。
酪農乳牛がふえると、その排泄物からなる堆肥が
田んぼへと還元されます。土作りに大量の有機肥料が施され、また当時普及はじめた
防虫・除草技術も重なり、玉葱の作付けが盛んになり始めました。
収穫された玉葱は汽車(注1)で洲本や福良に運ばれ、さらに船積みで島外へと出荷されました。
やがて反当りの玉葱生産量が増え始めるにつれ、玉葱小屋に吊るす乾燥貯蔵法も
一般化しました。そこで高値の相場を狙って出荷調整できるようになります。
玉葱農家の所得が、急激に増えていきました。
玉葱の栽培がもたらした経済力と、重い玉葱を運搬する手段の模索が、
農民車のうまれる素地となったのです。
 
 
(注1)…淡路交通のこと。1922年、洲本−市村間が部分開通、
洲本−福良間が全通したのは翌1923年。1948年に電化したが、1966年には廃線となった。
 
 
 
その1 ―農民車以前のこと―
 
  現在、さまざまな形の農民車が淡路島にはありますが、その最初の起源は
三原町のM鉄工所(注2)で始まりました。
M鉄工所では、昭和三十年代初頭から市販車のスクラップ部品を寄せ集めて
耕運機を製作していました。その頃の淡路島では、M鉄工所にかぎらす、
農作業の労力を削減するべく、様々な農業機械が
たくさんの小さな鉄工所から生まれていました。
農作業でいちばんの重労働は土を耕すことでしょうが、
その重労働を軽減させてくれる機械は、まさに農民すべてが望んでいたものでした。
大手メーカーの耕運機はスクリュウ式・カゴ式・クランク式・ロータリー式と、
これも各社それぞれに独自性を発揮して性能を競っていましたが、高価でおいそれと
購入できるものでもなく、地元の鉄工所が造ったスクラップ組立ての耕運機も
人気があったのでしょう。その耕運機製作の技術的下地が、農民車という
貨物自動車が生まれる胎盤となったのです。  
収穫物や堆肥、農業資材を運ぶことは、農作業にとって必須のひとつですが、
当時の運搬車輛としては、軽三輪トラック(注3)・リヤカー・大八車・馬力(馬車のこと)
などがありました。軽三輪トラック以外は、いずれも人力か家畜による動力だったので
例外なく非力でした。将来性有望な軽三輪トラックも実用性に欠ける点があって、
 
1. 車高が低いために段差で底部を破損する。
2. ぬかるんだ圃場でスリップして、抜け出せなくなる。
 
などの事態が頻発していました。
とくに、昭和初期から続く三原平野の玉葱生産において、
その収穫時期である梅雨どき、まさに軽三輪車は苦闘の連続でした。
ただでさえ急がなければならない収穫適期において、
農民たちには踏破性・運搬能力に優れた車輛が待望されていました。
 
 

(注2)訃報:農民車を世に始めて送り出した方は、平成十四年三月十七日に

亡くなられました。おたけさんは、M鉄工のM氏に農民車情報を色々教えてもらった際に、

その方の開発当時の苦労話を色々お聞きしたそうです。

開発者氏は工具を非常に大切にし、工作機械はいつも手入れを行き届かせており、

農民車以外にも、産業用機械などを多岐にわたり開発していた方でした。 

(注3)軽三輪トラック…くろがねが昭和五年に発売した「ニューエラー三輪車」が、国産初の
三輪自動車。ちなみに戦後初の軽三輪トラックは、ホープスターという会社が
昭和二十八年二月に発売した。一般的にはマツダ・三輪、ダイハツ・ミゼット等が有名。
 
 
 
その2 ―黎明期―
 
農家の要望にこたえるべく、島内の各鉄工所は試作車輛の開発にはいりましたが、
市販の軽三輪の実用性を超えるのは困難が伴ないました。 すなわち、
 
1. 機械式ブレーキは、ぬかるみから出たとたんに効かなくなる。
2. C型鋼材(注4)をつかった車台は、腐食しやすく折れてしまう。
3. 角型の鋼材(注5)を使うと剛性が強すぎて車体がねじれず、方輪が浮いてスリップしてしまう。
4. 前部を軽くしてハンドル操作を楽にしようと低馬力のエンジン使えば重い玉葱を大量に運べない。
5. といって、大馬力のエンジンでは振動が激しく、車台が折れてしまう。
6. 同様に、重い前部エンジンは空荷の際、後部を相対的に軽くしてしまい、ぬかるみでのスリップを招く。
 
これら多くの問題点を克服するには、軽くて高出力のエンジンが流通するのを
待たなければならないのはもちろんでしたが、
鉄工所側の車輛製造に対する知識・経験の熟成も必要でした。
まだまだ農民車は黎明期だったのです。
また、この時期は後輪よりも前輪をわざと小さくして
ハンドルの切れ角(つまり旋回半径の小ささ)を稼いでいたため、
前輪には制動装置はなにもありませんでした。前輪はただの車輪で、
ブレーキは後輪だけにあったのです。
駆動元となるエンジンは石油発動機・ジーゼル発動機が主で
水冷式ではありましたが、現在のラジエーターのようなものはなく、
水の入ったタンクで冷やすホッパー式がほとんどです。
減速比率は、エンジン側3.0〜3.5インチプーリー、
変速機側は9.0〜10.0インチです(減速比1:3程度)。
クラッチは、まだ油圧ではなく機械式クラッチ(注6)が大半でした。
これらも取り外されたスクラップ部品次第で、いろんな加工方式があったようです。
いまでは考えられないような挿話があります。
変速機のレバーがフロア・シフト(注7)だと、レバーと床の隙間をつたって
雨水がギヤボックスの中まで浸透してしまい、
変速機が錆びて動かなくなることがよくあったそうです。
変速機が動かないと駆動輪も動きませんから、話になりません。
雨の日は傘でもささなければ走行もできないような車だったのです。
ちなみに、この変速機が錆びるという問題は、
T鉄工所のF氏という方が「ハンドル式変速機(注8)をフロア・シフト化」するという
方式を取りいれることによって解決されました。
話が前後しますが、農民車の足回りに使われていたのは、
やはり前述のダイハツ・マツダの軽三輪車のものが多く、 
やがてトヨタ・トヨエース(注9)へと移行していきます。
やはり生産台数があり、スクラップ部品として手に入れやすい
車種に人気があったのです。
 
 
(注4)C型鋼材…断面が角張った「C」の形をした、建築用鋼材。おもに鉄骨スレート葺きの
倉庫などに用いられ、俗に「Cチャン」などと呼ばれる。
 
(注5)角型の鋼材…おなじく、断面が長方形の鋼材。
 
(注6)機械式クラッチ…エンジンの駆動力を一時的に物理的方法で切断するクラッチ。
マニュアル・トランスミッションに付随するが、普通、オートマチック・トランスミッションにはない。
 
(注7)フロア・シフト…シフトレバーが床から突き出ているレバー形式。
 
(注8)ハンドル式変速機…シフトレバーがハンドル軸についている形式。
コラム・シフトともいう。
 
(注9)トヨタ・トヨエース…1954年にトヨペット・ライトトラック(SKB)四輪車が開発され、
二年後の1956年にトヨエースと改称される。
トヨエースは、その実用性と経済性で三輪トラックに取って代わることになる。
 
 
 
その3 ―発展と職人技―
 
さて、昭和三十年代も後半になってくると、島内中の鉄工所から
様々な農民車が雨後のタケノコのごとく生産されはじめて、
その普及は驚くべき速度でした。
技術的な面では、中古の農業用エンジン(いわゆる農発)に
セルモーター始動装置(注10)がついたり、フットブレーキが油圧化されたりしていました。
そして未舗装の土地を行動範囲とする車両にとって不可欠な要素、
四輪駆動の部品が昭和四十年代にはいったころから中古市場に出回りはじめました。
当初は、主として自衛隊でスクラップとなったジープ(注11)が多く、
部品はアメリカ式のインチサイズだったため、加工するには面倒な品物でした。
しばらくすると、ようやく国産の四輪駆動車がスクラップ部品として再生されはじめました。
これらは、消防自動車のものが主流だったようで、当時の
ニッサン・パトロール(注12)、トヨタ・ランドクルーザー(注13)、三菱ジープ(注14)がありました。
なかでも、トヨタの車輛は部品の互換性にすぐれ、消耗品の交換も
容易だったためか車体寿命が長く、かなり普及しました。
四輪駆動の農民車が増えてくると、農業用の単気筒ディーゼルでは
どうしても馬力不足で、かといって高出力の農業用エンジンはとてつもなく高価なものでした。
このへんで乗用車用のエンジンが農民車に搭載されはじめます。
ラジエーターがない空冷エンジンが簡素な構造と整備性のよさで人気がありましたが、
それらはトヨタ・パブリカ(注15)、マツダ・クーペ360(注16)などから流用されました。
パブリカは大ヒットした車種なので、安い値段で入手できる手軽なエンジンでした。
意外なことに、ホンダ製のエンジンはまったく使用されませんでした。不幸なことに、
ホンダの物はエンジンの回転方向が逆(注17)だったのです。
乗用車のエンジンが静かな水冷方式主流になるにつれ、農民車も
水冷エンジンを積みはじめています。
大流行したパブリカ(これも水冷化する)(注18)に取って代わり、ニッサン・サニー(注19)のA型エンジンが登場しました。
このエンジンは簡単な構造で整備しやすく、頑丈で力持ちという、
農民車にとっては最良のエンジンでした。
昭和五十年代以降、国の排気ガス規制(注20)が施行されるとともに、
気化器から必要な配管だけを残して
多数のゴムパイプ類を詰めるという処理が必要になってきました。
このころ流用された乗用車エンジンは、トヨタ・カローラ(注21)やニッサン・サニーなどの
いわゆる大衆車でした。
近年、燃料噴射制御装置(注22)付きのエンジンが
市販乗用車の主流になってきて、そのまま農民車へ搭載することは
ますます困難になってきました。
原因は防水性が脆弱な電装部品がエンジンに取り付けられているからで、
野ざらしで駐車されていることの多い農民車には極めて不利でした。
駆動方式がほとんどFF式(注23)になって、セルモーターが変速機側に
つくようになったことも大きな変化です。
農民車のほうでも、動力をエンジンから変速機まで
延長シャフトによって伝達していた加工はすたれ、
エンジンと前輪駆動変速機をそのまま搭載し、自在継手(ユニバーサル・ジョイント)によって
もう一つの四輪駆動変速機まで伝える…という方式に変化していきました。
したがって、変速段階は不必要なまでに増加し、たとえば
エンジン変速機が五速、四駆変速機が四速と副変速機が二速ついているとすると、
5×4×2=40…四十段変速(前進だけ)
という非常識な段数になってしまい、これでは運転者がどこにギヤを入れたら
最適の速度なのか迷ってしまうほどです。
また同時に、市販車における油圧パワーステアリング(注24)、ブースター(注25)付きの
クラッチやブレーキの一般化が農民車にも同様の影響をあたえています。
市販車の運転条件が良くなっていくということは、それらの中古品で
組み立てられる農民車の性能・運転条件も向上させていくのです。
  私(おたけ)が知っているうちの「究極の農民車」は、
オートマチック変速機仕様の四輪駆動・四輪操舵装置付き堆肥散布車です。
その姿は重量感と迫力たっぷりで、まるで装甲車のようです。
それと、似たような操舵方式で、中折れ式四輪駆動農民車
(タイヤで走行するブルドーザーみたいな感じ)かあり、
その搭載能力は実に三トンもあります。これは法規制を知らないままに
造ったとしか考えられませんが。
玉葱を生産する農家には玉葱小屋が付随するものですが、農民車の幅は、
この玉葱小屋の寸法にあわせて決められています。
玉葱小屋は妻入りの真ん中に柱が立っているので、小屋全体の半分…つまり一間(畳の縦:約180センチ)に
入れることのできる車体として、だいたい140〜150センチが農民車の幅となります。
市販の普通車はだいたいそれ以上の幅がありますから、鉄工所では
高度な職人技として、切り縮めてからまた溶接で繋ぎ、焼入れによって車軸の中心を割り出します。
だから、農民車のデフまわり(注26)なんかには溶接あとがついているものです。
 
 
(注10)セルモーター始動装置…電動モーターによってエンジンを始動する装置。それ以前は
手回しクランクなどで始動していた。現在でも、一部の農業用エンジンは手回し式始動。
 
(注11)ジープ…米国・ウィリス・オーバーランド社が開発した軍用小型四輪駆動車。
日本では、中日本重工業がノックダウン方式によって
CJ3A-J1型を林野庁向けに54台納入したのが最初(昭和二十八年)。
自衛隊の前身である保安隊には、CJ3A-J2型として同じ年に500台納入している。
当初エンジンは水冷直立四気筒の七十六馬力でガソリンエンジンだった。
 
(注12)ニッサン・パトロール…1951年に発売開始。
 
(注13)トヨタ・ランドクルーザー…1954年に発売開始。
 
(注14)三菱ジープ…注10参照。J1型(1953年)からJ55型(1998年)まで生産された。
 
(注15)トヨタ・パブリカ…政府の「国民車構想」にあわせ、1961年に発売された大衆車で、
実用性と経済性を重視していた。エンジンは強制空冷水平対向ニ気筒OHV・697ccで二十八馬力。
caf4×4のNo.4を参照。
 
(注16)マツダ・クーペ360…東洋工業(現マツダ)が1960年に発売した軽乗用車。当時の軽としては
画期的な4サイクルエンジン、オートマチック・ミッションも選択できた。
エンジンは強制空冷Vニ気筒OHV・356ccで十六馬力。
 
(注17)エンジンの回転方向が逆…といっても、エンジン以外のホンダ製部品はひろく使用されている。
fam4×2のNo.2、およびNo.4参照。
 
(注18)パブリカ(水冷化)…1969年4月、パブリカは2代目のKP30型に。エンジンは水冷直列四気筒OHV1000/1100cc
 
(注19)ニッサン・サニー…1966年、ダットサンから発売されたセダン。エンジンは、水冷直列四気筒OHV・988ccで五十六馬力。
その後、ダットサンは日産自動車と合併した。
 
(注20)排ガス規制…1968年に大気汚染防止法にもとづくかたちで実施された。
ガソリン車は未施行時よりも窒素酸化物で92%、一酸化炭素は90%が排出削減され、
数値目標と規制物質は年を追う事に強化されつづけている。
 
(注21)トヨタ・カローラ…1966年に発売されたベストセラー車で、わが国に真の車社会をもたらしたとされる。
エンジンは水冷直列四気筒OHV・1070ccで六十馬力。
 
(注22)燃料噴射制御装置…車の走行状態のちがいで最適状態が異なる混合気の割合を、
マイクロコンピューターによって制御する装置。燃費効率の改善と排ガスの有害物質除去に
おおきな役割をはたした。
 
(注23)FF式…フロントエンジン・フロントドライブのこと。エンジンが前部にあって、前輪が駆動する方式。
現在の乗用車は、この方式が主流になっている。
 
(注24)油圧パワーステアリング…油圧によってハンドルをまわす手の力を補助する機構。
 
(注25)ブースター…ガソリンエンジンにおいて、気筒内への吸気段階でおきる負圧を利用し、
ブレーキ・クラッチ等を操作する人力を補う装置。
 
(注26)デフまわり…「デフ」は、デファレンシャルギヤの意味で、旋回時の内輪と外輪の回転数差を
補うためのギヤ機構。「差動ギヤ」ともいう。
つまり、デフまわりとは左右の車輪の間にある車軸部分のこと。
 
 
 
その4 ―おわりに―
 
鉄工所の技術はそれなりの評価ができるのですが、一方で
人間が扱うものとして考えた場合は疑問もでてきます。このような改造車が
天蓋もないまま突っ走り、平気で最大積載量(500キロ)を超過している。
そのうえ二名乗車で自動車まで追い越したり、3.5トンもあるような建設機械をを積んだまま走行する。
糞尿をばらまきながら去って行く。
いずれも公道での出来事です。
「淡路島という田舎だから許される行為」なのだとしたら、
かなり遺憾な話です。
農民車が、生研機構(注27)のホームページに載るようになるのはいつでしょうか。
ここで安全鑑定番号(注28)を交付してもらって、日本全国を堂々と走れる日が来ることを夢見ています。
 
おたけ
 
 
(注27)生研機構…「生物系特定産業技術研究推進機構」の略。
民間が行う生物系特定産業技術の研究開発の促進と、農業機械化の一層の促進という課題を担い、
産・学・官連携の拠点として、昭和61年10月、特殊法人農業機械化研究所を改組して官民共同で設立された。
 
(注28)安全鑑定番号…生研機構が実施している制度のひとつ。
「作業者に危険を及ぼすおそれの無いよう農業機械に安全防護装置等が装備されているか否かについて
判定する。判定結果は、依頼者に通知されるとともに、鑑定基準適合機は農林水産省に報告され、
鑑定基準適合機には[安全鑑定証票]を附することができる。」というもの。
つまり、国が「安全ですよ」と押してくれる太鼓判。
 
 
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